突然いなくなった兄⑤
突然いなくなった兄④の続き
2011年9月末に
「兄の遺体が見つかった」
という警察からの電話を受けた両親は、次の日にその警察署へ向かった。
兄が一人暮らしをしていた東京とは新幹線で小1時間、さらに電車に乗り換えて40分ほどの所だった。
実家からは新幹線で約3時間の所で、東京との間にあった。
父と母はそこの警察署へ出向くのと、東京の兄の部屋の片付けを泊まりがけでした。
自分の子どもの部屋を片付けるなんて、一体どれほどの悲しみだろうか。
私はこのころ25歳前後だった。
ほぼ毎日、こうやって母の気持ちを想像しては1人苦しんでいたと思う。
父と母の結婚式の写真を見つけた時もしばらく悲しみ苦しみの日々が続いた。
結婚するときはこんなことになるなんて誰も想像しなかったよね。
結婚式の時は兄はすでに母のお腹にいたと聞いたことがあったので、余計にやるせなくなった。
だから、
「現在SNSなんかで子どもの写真を載せまくる人はやめたほうが良いんじゃない?もしもの時が来たとき、悲しみ苦しみが何倍にもなるよ。」
なんてことも考えた。
それとこれとは別だから今はそうは考えませんが(;^_^A
当時は1人で苦しみながら色んなことを考えたと思う。
私も死にたいと思っていたことがあるので(兄には先を越されたと思った)
「こんな死にたくなるような世界に自分は産み落としたくない。かわいそうだ。」
なんていうことも思ったことがある。
なんというか、母だったり親の立場の気持ちばかり気にして、私が兄を亡くしてどうなのか、ということはほとんど考えてなかったと思う。
自分の感情は後回しだった。
後回しどころか、押さえ込み続けたのでどこに行ったのか?分からなくなっていた。
今思えば、自分で自分の感情を感じられないのは、とてつもなく不幸だと思う。
泣き叫んだり、パニックになったり出来たらどれだけマシだったかな。
押さえつけたぶん、長引いた。
両親が警察署と片付けに行っていた日、私は友達の結婚式に出席して、スピーチまでした。
欠席しても良い様な状況だったのに、平然としていた。
小学校からずっと付き合いがあって、辛いときも支えてくれた友達だったから出席したいしスピーチも全うしたいという気持ちももちろんあった。
でも出席した。一緒に式場まで車で行った友達にも、兄のことは一切言わなかった。
大げさかもしれないけれど、兄のことについては麻痺させていた感覚だった。
普通に笑ったし、お祝いした。
兄のことが非現実的だった。
(今は、結婚式という華やいだ場所が苦手なので何人か欠席していますが、無理しない素晴らしさを感じています。笑
お祝いは個別にしたら良いしね。)
帰って来た両親からの話
父と母が警察署に行ったら、すでに兄はお骨になり、その骨壺があったそう。
母は
「こんなのこの子じゃない!!」
とその場で崩れたと。
姿も見れなかったなんて、どんな仕打ちだろうか。
父は警察から話を聞いた。
現場写真も見たそうだ。
遺体の写真も。
私も現場付近の写真は見せてもらった。
「兄の写真も見る」
と私は父に言ったけど、父は
「見んほうがいい」
と言ったので、やめておいた。
現場は森の奥深くで、兄は10日間ほど何も食べていない状態だったそう。
よろけて川に顔が入り、そのまま亡くなったそうだった。
直接の死因は溺死だった。
でも、兄のカバンの中に遺書があったからね。
現場付近にはイヤホンやメガネが点々と落ちていたそうで、1つづつビニール袋に警察がいれて保存されていた。
免許証もあった。
発見者は釣り人だったらしい。
遺書には、色々書いてあったけど、
東京からその場所までの電車を何駅分かとか、乗り換えた駅とか、その間何分とかが細かく書いてあったのと、
「この場所を選んだのは意味はありません。さようなら、見つけてくれた人ありがとう。」
と書いてあった。
兄は几帳面で真面目だったから、兄らしいな…って思った。
そんな所でその人らしさを見つけたくないけどね…。
一連の騒動はいったんここで終わりです。
葬儀は執り行わず、お寺でお経をあげてもらった。
(ここもどうするか揉めました。)
おばあちゃんには、事故死ということにして伝えた。
騒動は終わっても実際の生活は、ここからが大変でした。
あれから8年と7ヶ月が経ちます。
なんとかかんとかしのいで?しのぎきれなくとも(・_・;生きてきました。
母は兄の死亡届の提出だったり、口座や携帯やカードなんかの解約手続きとか、もろもろやることがあったんだろう。
しばらくうちには平和なんかなかったと思う。
日々の思いはおいおい書いていきます。
読んでくださり、ありがとうございますm(__)m